日曜の夕方、居間のテーブルに「ねんきん定期便」を広げて、夫が言います。「70歳まで待てば、年金は4割増えるらしい」。妻が聞き返します。「でも、待っているあいだに何かあったら、どうなるの?」
年金の繰下げ受給は、受け取りを遅らせるほど年金額が増える仕組みです。ただ、得になるかどうかは「何歳まで生きるか」と「手取りでいくら残るか」で変わります。この記事では、日本年金機構の公表内容(2026年10月時点)をもとに、増える割合、損益分岐の年齢、繰り下げ中に亡くなったときの扱いを、60代のご本人とご家族向けに整理します。
この記事の結論
- 繰り下げると、1か月につき0.7%増えます。70歳からなら42%、75歳からなら最大84%増えた額が一生続きます。
- 額面だけで比べると、受け取り始めてからおよそ11年11か月で、65歳から受け取った場合の総額に追いつきます。70歳開始なら81歳11か月ごろが分かれ目です。税金や保険料を引いた手取りでは、この年齢が変わることがあります。
- 繰り下げて待っているあいだに亡くなると、家族が受け取れるのは増額前の年金で、5年より前の分は時効で受け取れません。繰り下げるなら、そのことを家族に伝えておくと安心です。
繰下げ受給の仕組み|66歳から75歳まで、1か月0.7%ずつ増える
老齢基礎年金と老齢厚生年金は、本来65歳から受け取れます。これを66歳以後75歳までのあいだに遅らせて受け取り始めるのが「繰下げ受給」です。
増える割合は、1か月あたり0.7%です。65歳になった月から、繰り下げを申し出た月の前月までの月数を掛けて計算します。上限は75歳で84%です。一度決まった増額率は、一生変わりません。
主な条件は次のとおりです。
- 75歳まで繰り下げられる人:1952年(昭和27年)4月2日以後に生まれた人。1952年4月1日以前に生まれた人と、2017年(平成29年)3月31日以前に年金を受け取る権利ができた人は、上限が70歳(最大42%)です。
- 基礎年金と厚生年金は別々に決められる:たとえば、厚生年金は65歳から受け取り、基礎年金だけ繰り下げることもできます。
- 65歳前の年金は対象外:65歳になる前に受け取る「特別支給の老齢厚生年金」には、繰下げの制度がありません。
反対に、65歳より早く受け取り始めるのが「繰上げ受給」です。1962年(昭和37年)4月2日以後に生まれた人は、1か月につき0.4%減り、60歳から受け取ると24%減ります。繰上げは一度請求すると取り消せません。繰下げは66歳以後、自分が決めた時期に請求する形なので、「いつ始めるか」を後から選べるのが大きな違いです。
増額率と損益分岐の年齢の早見表(66〜75歳)
65歳から受け取る年金を年額100万円としたときの早見表です。年額200万円の人は、金額を2倍にして読んでください。
| 受け取り始める年齢 | 増額率 | 年額(65歳で100万円の場合) | 総額が65歳開始に追いつく年齢の目安 |
|---|---|---|---|
| 65歳(本来) | 0% | 100万円 | — |
| 66歳 | 8.4% | 108.4万円 | 77歳11か月ごろ |
| 67歳 | 16.8% | 116.8万円 | 78歳11か月ごろ |
| 68歳 | 25.2% | 125.2万円 | 79歳11か月ごろ |
| 69歳 | 33.6% | 133.6万円 | 80歳11か月ごろ |
| 70歳 | 42.0% | 142.0万円 | 81歳11か月ごろ |
| 71歳 | 50.4% | 150.4万円 | 82歳11か月ごろ |
| 72歳 | 58.8% | 158.8万円 | 83歳11か月ごろ |
| 73歳 | 67.2% | 167.2万円 | 84歳11か月ごろ |
| 74歳 | 75.6% | 175.6万円 | 85歳11か月ごろ |
| 75歳 | 84.0% | 184.0万円 | 86歳11か月ごろ |
※増額率は日本年金機構の公表値(2026年10月時点)。「追いつく年齢」は、税金・社会保険料を引く前の額面で、受取総額を単純に比べた当社の試算です。「〇歳になった月」は、誕生日の前日が属する月で数えます。
損益分岐の考え方|「何歳まで生きれば得か」は額面での話
早見表の「追いつく年齢」は、どの年齢で繰り下げても、受け取り始めてから約11年11か月後になります。1年繰り下げると8.4%増えるので、待った年数分の年金を、増えた分で取り戻すのにそれだけかかる、という計算です。
具体的な数字で見てみます。65歳から年額180万円を受け取れる人が、70歳まで繰り下げたとします。70歳からの年額は42%増えて255.6万円です。
- 80歳の時点:65歳開始は15年分で2,700万円、70歳開始は10年分で2,556万円。65歳開始のほうが144万円多い。
- 81歳11か月ごろ:どちらも約3,045万円で並ぶ。
- 85歳の時点:65歳開始は20年分で3,600万円、70歳開始は15年分で3,834万円。70歳開始のほうが234万円多い。
参考までに、厚生労働省の「令和7年簡易生命表」では、65歳の人の平均余命は男性19.68年、女性24.52年です。平均どおりなら男性は84歳台、女性は89歳台まで生きる計算になります。ただ、これはあくまで平均です。ご自身の寿命は誰にも分かりません。損益分岐は「長生きしたときに安心か」「早く亡くなったときに後悔しないか」を考える材料のひとつ、と受け止めてください。
もうひとつ見ておきたいのが手取りです。年金額が増えると、所得税・住民税や、国民健康保険・介護保険の保険料も上がる場合があります。日本年金機構も、繰下げによって税金や保険料、医療・介護の自己負担に影響が出る場合があると案内しています。手取りで比べると、損益分岐の年齢が額面の計算より後ろにずれることがあります。どのくらい変わるかは収入の組み合わせで人それぞれなので、個別の税額が気になる方は、提携の税理士が確認します。
なお、繰上げを60歳から始めた場合は、額面で80歳10か月ごろを境に、65歳から受け取った人の総額のほうが多くなります(同じく当社の単純試算)。
繰り下げる前に確認したい4つのこと
1. 加給年金と振替加算は増えず、待っているあいだは受け取れない
加給年金(かきゅうねんきん)は、本人の老齢厚生年金に上乗せされるお金です。厚生年金に原則20年以上入った人が65歳になったとき、生計を維持している65歳未満の配偶者や、18歳になった年度の3月31日までの子などがいると加算されます。配偶者が65歳になると、今度は配偶者自身の老齢基礎年金に「振替加算」がつく場合があります(1966年4月1日以前に生まれた配偶者が対象)。
この2つは、繰り下げても増額されません。しかも、繰り下げて年金を受け取っていない期間は、受け取ることができません。年下の配偶者がいる人が老齢厚生年金を繰り下げると、この上乗せ分をもらえない期間が生まれます。基礎年金と厚生年金は別々に繰り下げられるので、「厚生年金は65歳から、基礎年金だけ繰り下げる」という分け方もあります。年金事務所で額を確かめてから決めてください。
2. 働きながら繰り下げると、止められている部分は増えない
65歳以後も会社勤めで厚生年金に入っている人は、給料と年金の合計が一定額を超えると、年金の一部または全部が止められます。これを在職老齢年金といいます。この仕組みで止められる部分は、繰り下げても増額の対象になりません。「働いているあいだは繰り下げておけば、全部が増える」とは限らない点に気をつけてください。2026年度の基準額などは2026年度の年金の変更点まとめで整理しています。
3. 医療・介護の負担割合や保険料に響くことがある
医療や介護の自己負担の割合、後期高齢者医療や介護保険の保険料は、所得をもとに決まります。年金が増えたことで、負担の区分が上がることがあります。たとえば介護保険の自己負担が1割か2割かの判定には、年金収入も含まれます。判定の基準は介護保険の2割負担の記事で確認できます。年金が増えたあとに確定申告が必要になるかどうかの目安は、年金受給者の確定申告の記事にまとめています。
4. 配偶者が亡くなると、そこで増額が止まることがある
66歳以後に繰り下げて待っているあいだに、ほかの公的年金を受け取る権利が生まれると、その時点で増額率が固定されます。たとえば、配偶者が亡くなって遺族年金の権利ができた場合です。また、66歳になる前から遺族年金などを受け取る権利がある人は、原則として繰り下げができません(生年月日などによる例外があります)。ご夫婦で年金の受け取り方を決めるときは、片方が先に亡くなった場合のことも一緒に考えておくと、あとで慌てずにすみます。
70歳を過ぎて「65歳からに戻したい」とき|5年前に繰り下げたとみなす制度
繰り下げて待っている途中で、病気や生活の変化から「やはり増額はいらないので、65歳からの分をまとめて受け取りたい」と考える人もいます。66歳以後は、繰り下げず65歳にさかのぼって請求することもできます。ただし、年金は5年で時効になるので、70歳を過ぎてからさかのぼると、古い分から受け取れなくなります。
そこで設けられているのが「特例的な繰下げみなし増額制度」です。70歳になったあとに、65歳からの年金をさかのぼって請求するとします。このとき、請求の5年前に繰り下げを申し出たものとみなし、増額された年金の5年分を一括で受け取れます。たとえば72歳で請求すると、67歳で繰り下げたとみなされます。16.8%増えた年金の5年分がまとめて支払われ、その後もその額が続きます。
- 対象は、1952年4月2日以後に生まれた人、または2017年4月1日以後に年金を受け取る権利ができた人です。
- 80歳以後に請求する場合や、請求の5年前より前から障害年金・遺族年金を受け取る権利がある場合は使えません。
- 過去分をまとめて受け取るため、その年の税金や保険料、医療・介護の自己負担に影響する場合があります。
繰り下げ中に亡くなったら|家族が受け取れるのは増額前の年金
冒頭の「待っているあいだに何かあったら」への答えです。日本年金機構の案内では、次のように扱われます。
- 家族が代わりに繰下げを申し出ることはできない:本人が亡くなったあと、遺族が「繰り下げたことにして増額分を受け取る」ことはできません。
- 受け取れるのは65歳時点の額での「未支給年金」:遺族は、65歳時点の年額(増額なし)で計算した年金を、未支給年金として一括で請求できます。
- 5年より前の分は時効:請求した時点から5年以上前の分は受け取れません。たとえば72歳で亡くなった場合、65歳から67歳ごろまでの分は時効にかかります。
- 遺族厚生年金に増額分は反映されない:配偶者が受け取る遺族厚生年金の額に、繰下げによる増額分は含まれません。
未支給年金を請求できるのは、亡くなった方と生計を同じくしていた遺族です。順番は、配偶者、子、父母、孫、祖父母、兄弟姉妹、それ以外の3親等内の親族で、先の順位の人がいれば後の順位の人は請求できません。
ここで困るのは、家族が「繰り下げていた」こと自体を知らない場合です。年金を受け取っていなかったので、通帳を見ても年金の入金はありません。家族は「年金はまだもらっていなかった」と思い込み、請求が遅れることがあります。請求書の書き方や、受け取ったお金の税金の扱いは未支給年金の案内が届いたときの記事で詳しく説明しています。
決める前に家族と共有しておきたいこと
繰り下げるかどうかは、ご本人が決めることです。ただ、繰り下げを選ぶと、65歳からしばらくは年金以外のお金で暮らすことになります。そのお金がどこにあるか、家族が知っているかどうかで、もしものときの動きやすさが大きく変わります。
- 繰り下げていること:基礎年金・厚生年金のどちらを、何歳まで繰り下げる予定か。
- 年金の書類の置き場所:基礎年金番号が分かるもの、ねんきん定期便、年金事務所からの通知。
- 待っているあいだの生活費の出どころ:どの銀行の、どの口座から取り崩すか。定期預金に置いている場合は、満期のときにどうするか。
とくに、繰り下げ中の生活費を本人名義の預金でまかなう場合、本人が認知症などで判断が難しくなると、家族が預金を引き出せなくなることがあります。銀行がどんなときに口座を止めるのかは認知症による口座凍結の記事に、家族で決めておくことは親のお金の管理の記事にまとめています。書き出す項目に迷ったら、無料のエンディングノート(記入式PDF)の財産のページを、一覧の型としてそのまま使えます。
今日できる一歩
1. ねんきん定期便で「65歳からの見込み額」を確かめる。早見表の増額率を掛ければ、70歳から、75歳からの年額のおおよそが分かります。基礎年金と厚生年金を分けてメモしておくと、どちらを繰り下げるかを考えやすくなります。
2. 年下の配偶者がいる方は、加給年金がつくかを年金事務所に聞く。電話や窓口で「繰り下げた場合、加給年金はどうなりますか」と聞けば、ご自身の場合の額が分かります。
3. 繰り下げるつもりなら、そのことを家族に一言伝えておく。「年金はまだ受け取っていない。もしものときは未支給年金の請求をしてほしい」と伝えて、書類の置き場所も一緒に教えておきます。
相談現場から|相談員メモ
よく伺うのは、「70歳まで繰り下げるつもりだったのに、定期預金が満期になったときにどうするか決めていなかった」というお話です。年金を待つあいだの生活費をどこから出すかが決まっていないと、繰り下げの計画そのものが揺らぎます。また、ご家族が繰り下げのことを知らず、亡くなったあと未支給年金の請求に気づくのが遅れる場面もあります。損益分岐の年齢と同じくらい、「お金の置き場所」と「家族への共有」を一緒に考えておくと、計画が崩れにくくなります。
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- 遺族年金で妻はいくら?夫が亡くなったときの年金の計算と手続き(2026年度)
参考にした公的情報
- 日本年金機構「年金の繰下げ受給」 https://www.nenkin.go.jp/service/jukyu/seido/roureinenkin/kuriage-kurisage/20140421-02.html
- 日本年金機構「年金の繰上げ受給」 https://www.nenkin.go.jp/service/jukyu/seido/roureinenkin/kuriage-kurisage/20140421-01.html
- 日本年金機構「加給年金額と振替加算」 https://www.nenkin.go.jp/service/jukyu/seido/roureinenkin/kakyu-hurikae/20150401.html
- 日本年金機構「年金を受けている方が亡くなったとき」 https://www.nenkin.go.jp/service/jukyu/tetsuduki/kyotsu/jukyu/20140731-01.html
- 厚生労働省「令和7年簡易生命表の概況」 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life25/index.html
※本記事は2026年10月時点の一般的な情報の整理です。損益分岐の年齢は額面での単純な試算で、実際の手取りは税金・社会保険料などにより変わります。ご自身の年金額や繰下げの可否は年金事務所に、個別の税務の判断は税理士にご確認ください。
本記事はFP(ファイナンシャル・プランナー)・生命保険募集人 門田 博之監修のもと、一般的な情報提供を目的として作成しています。個別の税額の計算や法的な判断は、税理士・弁護士などの専門家にご確認ください。
