父が亡くなり、家も預金も母が全部受け継ぐことで、家族の話はまとまった。あとは協議書を書くだけ。でも「全部を母に」と書いたとき、ほかの兄弟は何を手放し、何が手元に残るのか。そこまで説明できる人は多くありません。
先に答えを書きます。一人が全て相続する協議書は、「被相続人の遺産は、全て○○が取得する」と書き、相続人全員が署名して実印を押せば作れます。ただし、ほかの相続人が手放すのは、プラスの財産の取り分だけです。借金は、協議書で「○○が負担する」と書いても、貸した側は法定相続分で各相続人に請求できます(民法902条の2、家庭裁判所の案内)。この記事では、記載例と、ほかの相続人が失うもの・失わないものの表、相続放棄との違いを、2026年10月時点の公的な情報で整理します。
先に結論:全部を受け取る人以外は「財産の取り分」だけを手放します
この記事の結論
- 書き方:「被相続人の遺産は、次の財産を含め、全て○○が取得する」と書き、主な財産は登記事項証明書や通帳のとおりに並べます。後から見つかった財産の一文も入れます。
- 失うもの:家や預金などプラスの財産を受け取る権利です。分け方は、相続が始まった時にさかのぼって効力が生じます(民法909条)。
- 失わないもの:借金を請求される立場(法定相続分の割合)、受取人として名前が書かれた保険金、相続人であること自体です。借金から離れたいなら、家庭裁判所の相続放棄を考えます。
一人が全て相続するときの遺産分割協議書の記載例
法務局の相続登記の記載例に載っている協議書の形(前文・分け方・末尾の文・日付・署名押印)に合わせた一例です。父が亡くなり、母・長男・長女の3人が相続人で、母が全部を受け継ぐ場合を想定しています。名前と財産は仮のものです。
最後の住所 愛知県○○市○○町○丁目○番○号
本籍 愛知県○○市○○町○番地
上記被相続人の相続人である甲野花子、甲野一郎及び甲野春子は、被相続人の遺産について協議を行い、次のとおり合意した。
1 被相続人の遺産は、次の財産を含め、全て甲野花子が取得する。
(1)土地 所在 ○○市○○町○丁目 地番 ○番○ 地目 宅地 地積 ○○.○○平方メートル
(2)建物 所在 ○○市○○町○丁目○番地○ 家屋番号 ○番○ 種類 居宅 構造 木造瓦葺2階建 床面積 1階○○.○○平方メートル 2階○○.○○平方メートル
(3)預金 ○○銀行○○支店 普通預金 口座番号○○○○○○○
2 本協議書に記載のない遺産及び後日判明した遺産も、全て甲野花子が取得する。
3 被相続人の債務は、甲野花子が負担する。
住所 ○○ 氏名 甲野一郎 ㊞(実印)
住所 ○○ 氏名 甲野春子 ㊞(実印)
- 「全て」だけで終わらせない。不動産は登記事項証明書のとおり、預金は支店・種類・口座番号まで書くと、法務局や銀行でその財産だと分かります。財産ごとの書き方は遺産分割協議書の書き方とひな形で説明しています。
- 第2項(後日判明した遺産)を入れる。入れておけば、あとで知らない口座が見つかっても、話し合いのやり直しになりにくくなります。
- 第3項(債務)は、家族の中の約束です。貸した側には主張できません。理由は次の章で説明します。
- 全員の署名と実印、全員分の印鑑証明書が要ります。何も受け取らない長男・長女も同じです。
全部を受け取る人以外が、失うもの・失わないもの
記載例だけでは分からないのが、判を押す側にとって大事な「押したあと自分に何が残るか」です。協議書で何も取得しないとした相続人について、表にしました。
| 項目 | 何も取得しない相続人は | 根拠 |
|---|---|---|
| 家・預金などプラスの財産 | 失う。相続が始まった時にさかのぼって、全部を受け取る人のものになる | 民法909条 |
| 後から見つかった財産 | 第2項を入れていれば失う。入れていなければ、改めて全員で話し合う | 協議書の書き方しだい |
| 借金・未払い金などの債務 | 失わない(請求される立場が残る)。貸した側は法定相続分の割合で請求できる | 民法902条の2、京都家庭裁判所「遺産分割Q&A」 |
| 受取人として名前が書かれた死亡保険金 | 失わない。受取人の財産で、原則として遺産分割の対象ではない | 死亡保険金は遺産分割の対象になる? |
| 相続人という立場 | 失わない。家庭裁判所の相続放棄とは違い、相続人のまま | 民法939条(放棄の効力)との比較 |
| あとから家庭裁判所で放棄する道 | 協議に加わったことで、相続を受け入れたと見られ、放棄が認められにくくなるおそれがある | 民法921条 |
借金は、協議書で「母が負担」と決めても、貸した側は法定相続分で請求できます
民法902条の2は、遺言で相続分を決めた場合でも、貸した側は法定相続分に応じて各相続人に請求できると定めています。貸した側が、決めた割合での引き継ぎを認めたときは別です。話し合いで決めた場合について、京都家庭裁判所の「遺産分割Q&A」は、借金は法定相続分に応じて当然に分かれるので原則として遺産分割の対象にならず、特定の人が引き継ぐと合意しても「相続人間の内部関係を決めたに過ぎず」、貸した側に主張できるわけではない、と説明しています。
| 例:父の借金300万円 | 法定相続分 | 貸した側が請求できる額 | 家族の中の約束(協議書) |
|---|---|---|---|
| 母 | 2分の1 | 150万円 | 300万円全部を負担 |
| 長男 | 4分の1 | 75万円 | 負担しない |
| 長女 | 4分の1 | 75万円 | 負担しない |
長男が75万円を請求されて払った場合、家族の中では、協議書の約束をもとに母へ負担を求める話になります。長男・長女を請求の相手から外したいなら、貸した側(銀行など)に、母だけが引き継ぐ形にできないか相談します。貸した側が認めれば、そのとおりになります(民法902条の2ただし書)。借金の有無が分からないときは、親の借金の調べ方で信用情報の開示の方法を確かめてから協議書に進むと安心です。
「一人が全て相続する協議書」と「相続放棄」の違い
「兄弟は相続放棄して、母に全部」という言い方をよく聞きますが、家庭裁判所の相続放棄と、協議書で何も取得しないことは別の手続きです。目的が「母に全部集めたい」なのか「借金から離れたい」なのかで、選ぶほうが変わります。
| 比べる点 | 協議書で一人が全て相続 | 家庭裁判所の相続放棄 |
|---|---|---|
| どこで | 相続人どうしの書面(協議書) | 家庭裁判所に申述する |
| 期限 | 話し合い自体に期限はない(相続税の申告10か月、相続登記3年は別にある) | 相続人になったと知った時から3か月以内(民法915条) |
| 借金 | 法定相続分で請求される | 引き継がない |
| 相続人の立場 | 相続人のまま | 初めから相続人でなかった扱い(民法939条) |
| 取り分の行き先 | 協議書で決めた人(全部を受け取る人) | ほかの同じ順位の相続人へ。子が全員放棄すると、親や兄弟姉妹に回ることがある |
| 実印・印鑑証明書 | 全員分が要る | 要らない |
| 裁判所に払う費用 | なし(印鑑証明書や戸籍の手数料はかかる) | 収入印紙800円(1人につき)と連絡用の郵便切手 |
| 向いている場面 | 借金がない、または少なく、家や預金を1人に集めたい | 借金が多い、または分からない |
母に全部を集めたい場合、子が家庭裁判所で放棄すると、放棄した分が母に集まるとは限りません。子が全員放棄すると、亡くなった方の親や兄弟姉妹が相続人になることがあります。集めたいなら協議書、借金から離れたいなら放棄、と考えると整理しやすくなります。兄弟から「放棄して」と頼まれた側の見極め方は、「相続放棄してほしい」と言われたらにまとめています。
協議書にする前に、家族の中で確かめる3つのこと
- 借金・保証・未払いがないか。あるなら、協議書の第3項だけで済ませず、貸した側に相談するか、放棄を考える人がいないかを先に確かめます。放棄には3か月の期限があります。
- 取り分がゼロで、本人が納得しているか。家を1人が継ぐ代わりに、ほかの相続人へお金を渡す分け方(代償分割)もあります。書き方は代償分割の遺産分割協議書の書き方にあります。
- 自分で判断して署名できない相続人がいないか。未成年の子と親が一緒に相続人になる場合は特別代理人、認知症などで判断が難しい場合は成年後見人が必要になることがあります。
ご家族の状況で「協議書で足りるか、放棄も考えるべきか」が分からないときは、30分の無料相談で、財産と借金の資料を見ながら一緒に整理できます。協議書の作成や登記は、提携の司法書士が担当します。
今日できる一歩
亡くなった方の郵便物と通帳の引き落とし欄を見て、ローン・カード・保証会社の名前がないか確かめる。何も見つからなければ協議書へ、見つかれば借金の調べ方へ進みます。
よくある質問
一人が全て相続する場合も、遺産分割協議書は必要ですか
相続人が2人以上いて、法定相続分と違う分け方をするなら必要です。不動産の相続登記や銀行の手続きで、全員が合意したことを示す書類として使います。相続人が1人だけなら、話し合う相手がいないので作りません。
「全ての財産を○○が相続する」の一文だけで足りますか
一文だけだと、法務局や銀行で、どの不動産・どの口座のことか確認を求められることがあります。主な財産は、記載例のように登記事項証明書や通帳のとおりに並べ、そのうえで「記載のない遺産も全て○○が取得する」と書いておくと確実です。
協議書で母が借金を負担すると決めたのに、私に督促が来ました
協議書は貸した側には主張できないため、法定相続分の割合で請求されることがあります。払った分は、家族の中で母に負担を求める話になります。家庭裁判所の放棄ができるかどうかは、協議に加わった事情などで変わるため、弁護士に相談してください。
遺言書に「全財産を妻に」と書いてある場合も、協議書が要りますか
有効な遺言書があれば、その内容で手続きできるため、協議書は原則として要りません。ただし子には遺留分があります。遺言で決める場合の考え方は財産を全部妻(夫)に相続させたいで説明しています。
何も受け取らない相続人も、印鑑証明書を出す必要がありますか
必要です。協議書には相続人全員が実印を押し、その印鑑証明書を添えます。受け取る財産がない人ほど「なぜ自分の印鑑証明書が要るのか」と迷いますが、全員の合意を示すためのものです。
参考にした公的情報
- 法務局「不動産登記の申請書様式について」(登記申請書(相続・遺産分割)の記載例と遺産分割協議書の例)
https://houmukyoku.moj.go.jp/homu/minji79.html - 京都家庭裁判所「遺産分割Q&A」
https://www.courts.go.jp/kyoto/saiban/katei/isan_qa/index.html - 裁判所「相続の放棄の申述」
https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_13/index.html - e-Gov法令検索「民法」(900条・902条の2・909条・915条・921条・939条)
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
※本記事は2026年10月時点の公的機関の公開情報をもとにした一般的な整理です。協議書に法律で決まった書式はなく、記載例は一例です。借金の扱いや相続放棄ができるかどうかは個別の事情で変わります。実際の手続きの前に、司法書士・弁護士・家庭裁判所にご確認ください。
本記事は司法書士 今井 裕司(愛知第1112号/簡裁認定 第118116号)監修のもと、一般的な情報提供を目的として作成しています。個別の事情による判断は、専門家にご確認ください。
