「親の判断があやしいことは伏せたまま、手続きだけ先に済ませられないか」。認知症の親をかかえて相続の話が始まると、多くの方が一度はこれを考えます。責められるような発想ではありません。話し合いが止まり、施設費や葬儀費の支払いが迫っているからです。
ただ、この道は通りません。伏せたまま終えられる相続手続きはないからです。判断能力がない人が署名した遺産分割協議書は無効になるため、家族だけで話をまとめても、そのままでは使えません。金融機関や法務局で追加の確認を求められて止まることがあるうえ、うまく進んだように見えても、あとから他の相続人に無効を主張されれば、やり直しになります。協議書には相続人全員の実印と印鑑証明書が要り、親の口座のお金の動きも、相続人なら一人で銀行に取引履歴を求めて確かめられます。どこで分かるのかは、このあとの早見表にまとめました。
この記事では、その代わりに法律上できることを、実際に動く順番どおりに整理します。成年後見の申立て、後見人が本人に代わって行う協議、凍結された口座から当面のお金を出す方法の3つです。
認知症になったあとの財産の運用や活用で気をつけたい点は、相続財産の運用にまとめています。
先に結論:認知症の相続人がいると、遺産分割協議は止まる
相続人の中に、認知症の人がいる
↓
判断能力がない人が署名した遺産分割協議は 無効
預金の解約も相続登記も、この段階で止まります
↓
家庭裁判所に成年後見開始を申し立てる
選ばれた成年後見人が、本人に代わって遺産分割協議に参加します。手続きを前に進める正規のルートはこれだけです。
家族が代筆する・代わりに実印を押す
協議は無効です。窓口で止まるだけでなく、他の相続人から私文書偽造を指摘される場合もあります。
先に知っておくこと
成年後見人に相続人の1人が就く場合、その相続では利益が対立するため、家庭裁判所に特別代理人の選任を求める必要があります。申立てから後見開始までは、おおむね1〜3か月かかります。
後見開始の申立費用は収入印紙800円と登記手数料2,600円、ほかに連絡用の郵便切手と医師の診断書料がかかります。鑑定が必要になった場合は別途費用が生じます(2026年8月時点・家庭裁判所により運用が異なります)。
相続税の申告期限は10か月です。後見の申立てに1〜3か月かかることを考えると、「そのうち考える」で足りる時間はあまり残りません。まず親の判断能力がどの段階にあるかを確認し、まだ残っているなら遺言書や任意後見、失われているなら後見の申立てへ、と分かれます。
認知症の相続人は「バレる」のか:隠して進められる手続きではありません
「バレるかどうか」を気にされる方の多くは、誰かを騙したいわけではありません。「母の判断力が落ちたことを知られずに、手続きだけ先に済ませたい」という気持ちです。その気持ちは自然なものです。ただ、答えは「バレるかどうか」の前にあります。署名した時点で意思能力がなければ、その協議は無効だからです。
先に押さえる3点
- 意思能力のない人がした契約や協議は、無効です(民法3条の2)。署名や実印があっても、これは変わりません。
- 本人の名前を家族が書いたり、実印を押したりすると、私文書偽造や、その行使の罪に問われるおそれがあります(刑法159条・161条。3か月以上5年以下の拘禁刑)。
- 正しい道は、成年後見人に本人の代わりに協議へ参加してもらうことです。
署名が問題になる場面を、具体的に
一つだけ、分けて考えていただきたいことがあります。本人に意思能力があり、手が不自由なために、本人の意思どおりに家族が代わりに書く場合と、意思能力のない人の名前を、家族が内容を決めて書く場合は、別のものです。意思能力があるかどうかは、診断名だけでは決まりません。迷うときは、医師の診断書と専門家の確認が必要です。当社の窓口が「まだ大丈夫」「もう無理」と申し上げることはできません。
どこで分かるのか:手続きの場面ごとの早見表
2026年10月時点の一般的な整理です。銀行の必要書類や対応は金融機関ごとに異なります。個別の判断は弁護士・司法書士にご確認ください。
どの場面でも記録が残り、相続人があとから確かめられます。伏せて進めるほど、やり直しの手間と、家族の間の不信が大きくなります。相続登記で出す書類の一覧は、相続登記の必要書類にまとめています。
なお、「親が生きている間に、家族が預金を引き出すとどうなるか」は別の話です。取引履歴や銀行の対応は、親が認知症なのに家族が預金を引き出すとバレる?銀行の対応と正しい方法にまとめています。
正しい道:成年後見人に、遺産分割協議へ参加してもらう
判断能力が不十分な相続人がいるときは、家庭裁判所に成年後見の申立てをします。選ばれた成年後見人が、本人に代わって遺産分割協議に参加します。申立先、費用、書類は、このあとの「成年後見の申立て:どこに、何を出すか」にまとめています。
最高裁判所の「成年後見関係事件の概況」(令和7年1月〜12月)では、成年後見・保佐・補助などの申立ては、全部で43,159件でした。申立ての理由(複数選択)のうち、「相続手続」は10,909件、約25.6%です。終局した事件の約71.1%は2か月以内、約93.8%は4か月以内に終わっています。ただし、診断書や書類をそろえる準備の期間は、これとは別にかかります。
後見人を誰にするかは、家庭裁判所が決めます。令和7年に選ばれた後見人等は、親族が約16.4%、親族以外(司法書士、弁護士、社会福祉士など)が約83.6%でした。
後見人が相続人の一人になるときは、特別代理人が必要
子が母の成年後見人になり、その子自身も同じ相続の相続人であるとき、母と子では取り分をめぐって利益が対立します。この場合、後見人である子が母の代理として協議に参加することはできません。家庭裁判所が選ぶ「特別代理人」が、母の代理で協議に参加します。後見監督人がついているときは、後見監督人が代理します(民法860条、826条)。
後見人がつくと、ここが変わります
- 本人の取り分は、一般に守られる方向で進みます。後見人は本人の利益を守る立場なので、本人の取り分を極端に少なくする案には、同意しにくいとされています。
- 書類づくりは専門家に任せられます。申立書の作成は、司法書士や弁護士が支援できます。当社では、提携の司法書士につなぎます。
相続放棄を考えているとき
認知症の相続人が相続放棄をする場合も、本人に意思能力がなければ、本人は手続きできません。他の相続人が代わりに出すこともできません。裁判所の案内では、相続人が成年被後見人のときは、法定代理人(成年後見人)が申述します。期限は、相続が始まったと知った時から3か月です。成年被後見人の場合は、法定代理人が知った時から数えます(民法917条)。財産の内容が分からず、3か月では決められないときは、期間を延ばす申立てができます。
判断能力がどれだけ残っているかで、打てる手が変わる
診断書の書式は、家庭裁判所からもらう
手続きを進められるかどうかの分かれ目は、本人に意思能力があるかどうかです。ここを家族の印象で判断すると、あとで協議が覆ります。家庭裁判所には成年後見の申立て用の診断書の書式があり、これを主治医に渡して記載してもらうのが実務上の入口です。書式は家庭裁判所の窓口とウェブサイトで手に入ります。
診断や治療の中身についての判断は主治医が行います。当社を含む相続の窓口が「まだ大丈夫」「もう無理」と申し上げることはできません。
⚠️ 順番が逆になると、やり直しになる
意思能力が失われた後は、本人による遺言書の作成も遺産分割協議も原則できず、行っても無効とされる可能性があります。残っているうちなら公正証書遺言や任意後見契約が使え、失われた後は成年後見の申立てしか道がありません。使える手の数がここで大きく変わります。
成年後見の申立て:どこに、何を出すか
申立先は、本人(認知症の方)の住所地を管轄する家庭裁判所です。申立てができるのは本人・配偶者・四親等内の親族などで、子どもからの申立てが最も多い形になります。
- 用意するもの/申立書一式(家庭裁判所の窓口またはウェブサイトで入手)、本人の戸籍謄本・住民票、医師の診断書(家庭裁判所所定の書式)、本人の財産目録と収支の資料、後見人候補者の住民票。
- 誰が後見人になるか/候補者を挙げることはできますが、決めるのは家庭裁判所です。財産が多い場合や親族間で意見が割れている場合は、弁護士・司法書士などの第三者が選ばれることがあります。選任結果に不服を申し立てることはできません。
- 始めたら途中でやめられない/成年後見は、遺産分割が終わったら終了する制度ではありません。本人が亡くなるまで続き、後見人には家庭裁判所への定期報告義務があります。この点を家族で共有してから申し立ててください。
- 後見人への報酬/親族が就いた場合を含め、報酬額は家庭裁判所が本人の財産額などをもとに決めます。金額を当事者間で取り決めることはできません。
まだ判断能力が残っているうちなら、選択肢は増えます。公正証書遺言を作っておけば遺産分割協議そのものが不要になり、任意後見契約なら後見人を自分で決められます。医師に「今なら意思確認ができる」と言われている段階が、いちばん動きやすいタイミングです。
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やっていいこと・やってはいけないこと
合法的にできる手続き と 避けるべき行為
◯ 合法的にできる手続き
✓ 意思能力があるうちに公正証書遺言を作成する
✓ 成年後見制度を利用し、第三者が財産管理・手続きを代行する
✓ 相続税を期限(相続開始から10か月以内)までに正しく申告・納税する
✓ 弁護士・司法書士・税理士など専門家に相談する
✕ 避けるべき・違法リスクのある行為
✕ 相続税の申告を怠る・過少申告をする(脱税とみなされる)
✕ 判断能力を失った親の口座から、使い道を残さずに出金を続ける
✕ 意思能力が欠如した親に遺言書を作成させる(無効になる)
✕ 相続人の同意を得ないまま手続きを進める
▶ 不適切な申告や手続きは、後の税務調査や相続人間のトラブルにつながります。正確な申告と専門家のサポートで進めることが安全です。
すでに進めてしまった場合は、どうすればいいか
ここまで読んで「もう動いてしまった」という方もいると思います。多くは取り返しがつきます。
代筆や実印で協議書を作ってしまった
その協議は無効なので、窓口に出しても通らず、作り直しになります。相続人全員が事情を知っているなら、後見の申立てをして協議をやり直せば済みます。他の相続人に伝えずに進めた場合は、指摘される前にご自分から事情を共有したほうが、話は収まりやすくなります。
すでに親の口座から施設費や生活費を出している
親のための支出であれば、やめる必要はありません。ただしいつ・何に・いくら使ったかの記録とレシートを必ず残してください。使途を説明できれば問題になりにくく、説明できないと後から他の相続人に「使い込み」と受け取られます。後見が始まった時点で、通帳と記録を後見人に引き継ぎます。
相続手続きの流れ(5ステップ)
合法的に進める相続手続きの流れ
事前準備
親の財産状況を把握し、遺産目録を作成します。
意思能力の確認
医師の診断を受け、認知症の進行度を確認します。
成年後見制度の申立て
家庭裁判所へ申立てを行い、成年後見人が選任されます。
遺産分割協議
成年後見人が本人に代わって協議に加わり、書面に残して全員が署名・捺印します。
相続税の申告・納税(完了)
相続開始から10か月以内に、正確な内容で申告・納税します。
凍結された口座から、当面のお金をどう出すか
口座が使えなくなる場面は2つあります。ひとつは、金融機関が名義人の判断能力の低下を把握したとき。もうひとつは、名義人が亡くなったときです。どちらも家族が窓口で頼んでも解除されません。
- 生前に凍結された場合/解除できるのは成年後見人だけです。医療費や施設費の支払いが止まってしまうため、凍結の前に後見の申立てを始めておくか、判断能力があるうちに家族信託や代理人届の手続きをしておきます(代理人届の取扱いは金融機関により異なります)。
- 亡くなった後/遺産分割が終わる前でも、各相続人は「遺産分割前の預貯金の払戻し制度」で一定額を単独で引き出せます。上限は、その口座の相続開始時の残高×3分の1×その人の法定相続分、かつ1つの金融機関につき150万円までです。
- 必要な書類/被相続人の出生から死亡までの戸籍、相続人全員の戸籍、請求する人の印鑑証明書。法定相続情報一覧図を法務局で作っておくと、金融機関ごとに戸籍一式を出し直す手間がなくなります(一覧図の交付は無料)。
葬儀費用や当面の生活費はこの制度でしのぎ、その間に後見の申立てと遺産分割協議を進める、という順番になります。
今日の一歩:親がまだ存命で、口座がすでに止まっているとき
後見の申立てには1〜3か月かかりますが、施設費や入院費の請求はその間も届きます。全国銀行協会は2021年に、本人の利益に資することが明らかな場合には親族からの依頼に応じることを検討する、という考え方を示しています。応じてもらえるかは金融機関により異なりますが、頼み方で結果が変わることがあります。
行き先
まず取引店(口座のある支店)の窓口へ。「本人の医療費・施設費の支払いについて相談したい」と用件を先に伝えます。ATMや電話ではなく、窓口で担当者と話す必要があります。
持って行くもの
本人の通帳と届出印/本人の本人確認書類/窓口へ行く家族の本人確認書類/本人との続柄がわかる戸籍謄本/本人名義で届いた施設・病院の請求書/診断書やケアマネジャーからの連絡票(あれば)。請求書が本人名義であることが、本人のための支出だと示すうえで効きます。
窓口で伝える3点
- 本人の今の状態(診断名、意思確認ができる状態かどうか、在宅か施設か)
- お金の使いみち(本人の医療費・介護費・施設費であること。家族の生活費ではないこと)
- いくら必要か(請求書の金額。毎月いくら不足しているのか)
断られたときの次の一手
支店の判断で止まっていることがあります。「本部の相続・後見の担当部署に取り次いでほしい」と伝えてください。それでも動かないときは、家族が現金を受け取らず支払先へ直接振り込む形で再度依頼する方法もあります。ここまでで進まなければ、後見の申立てに切り替える判断になります。
対応の可否・必要書類は金融機関ごとに異なります。後見の申立てを並行して始めておくと、断られた場合の待ち時間が短くなります。
よくある質問
母(認知症)の代わりに、私が署名してもよいですか
いいえ。意思能力のない母の名前を、子が決めて書くことはできません。協議が無効になるだけでなく、偽造の罪に問われるおそれがあります。成年後見人に、母の代わりに協議へ参加してもらう形で進めます。
認知症の相続人がいることを伏せたまま、相続手続きを終えられますか
終えられません。協議書には相続人全員の実印と印鑑証明書が要り、署名した時に意思能力がなければ協議は無効です。手続きが一度通っても、あとでほかの相続人に無効を主張されれば、やり直しになります。成年後見人に、本人の代わりに協議へ参加してもらう形で進めてください。
認知症と診断されたら、遺産分割協議は絶対にできませんか
診断名だけでは決まりません。協議の内容を理解して判断できる状態かどうかが問われます。軽い状態のときは、本人が参加できることもあります。判断は、医師の診断と、争いになれば裁判所が行います。当社が「できる」「できない」と申し上げることはできません。
成年後見の申立てには、どれくらい時間がかかりますか
令和7年は、終局した事件の約71.1%が2か月以内、約93.8%が4か月以内に終わりました。診断書や書類をそろえる期間は別です。相続税の申告期限(相続開始から10か月)に影響することがあるため、早めに提携の税理士にも相談してください。
参考にした公的情報
- 裁判所「後見開始」https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_01/index.html
- 裁判所「相続の放棄の申述」https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_13/index.html
- 最高裁判所「成年後見関係事件の概況(令和7年1月〜12月)」https://www.courts.go.jp/assets/20260316koukengaikyou-r7.pdf
- 法務局「相続による所有権の登記の申請に必要な書類とその入手先等」https://houmukyoku.moj.go.jp/homu/content/001393744.pdf
- 全国銀行協会「金融取引の代理等に関する考え方および銀行と地方公共団体・社会福祉関係機関等との連携強化に関する考え方について」(2021年2月18日)https://www.zenginkyo.or.jp/news/2021/n021801/
- 最高裁判所 平成21年1月22日判決(預金口座の取引経過の開示請求)https://www.courts.go.jp/saikosai/vc-files/saikosai/file3/80902015.pdf
- e-Gov法令検索「民法」(第3条の2、第826条、第860条、第906条の2、第917条)https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- e-Gov法令検索「刑法」(第159条、第161条)https://laws.e-gov.go.jp/law/140AC0000000045
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本記事は司法書士 今井 裕司(愛知第1112号/簡裁認定 第118116号)監修のもと、一般的な情報提供を目的として作成しています。個別の事情による判断は、専門家にご確認ください。
